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諸地域世界の交流と再編:イスラーム世界の形成と拡大

2013年11月02日更新

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はじめに

現在、時事問題としても注目されている地域ですので、世界史Bの試験問題としても、出題される頻度が高くなると思われます。

イスラム教の創始者・ムハンマドは、アラビア半島の遊牧民の独自意識(アイデンテティ)を高め、その遺言により二代目カリフは、アラビア半島から、ユダヤ教徒・キリスト教徒を他地域に移住させました。

イスラム教の聖典コーランは、全114章・6226節ありますが、そのうち、15章・93節がイエス・キリストに関したものであり、イスラム教創設当時はキリスト教の異端派と見なす考えもあったほどです。

9世紀半ば頃から、トルコ系イスラム教徒の純粋、清新、情熱が、7世紀に始まったイスラム世界を変えていったので、そこに至るまでを主題にまとめてみました。

ムハンマド時代

学ぶ内容

イスラム教は、アラビア半島のヒジャース地方で興りました。そこは、不毛の荒野が大部分ですが、メッカ、メディナ、ターイフなどの都市が、オアシスの中に発達しています。

イスラム教の発祥の地・メッカは、商業の中心地でもあり、2世紀頃のギリシア人もその存在を知っていたらしいです。また、メッカはアラビア第一の宗教都市であり、カアバと呼ばれる多神教の霊場があります。

カアバは、イスラム教徒によって受け継がれ、有名な黒石もあります。

ムハンマド(マホメット)(570頃~672)は、格式は高いけれども貧しい家に生まれました。25才の時、富裕な寡婦と結婚して安穏な生活を得ましたが、15年たったころ、預言者として活動を始めました。最初の信者がその妻です。

ムハンマドは最初の妻の死後、イスラム教に帰依した家族の6歳の娘と婚約し、622年の夏頃、イスラム教徒を集め、ヤスリブ(メディナ)に着きました。これがイスラム暦の元年です。

ムハンマドは、たびたび信徒を率いてメッカの隊商を襲撃していましたが、624年、1000人ほどのメッカ軍を300数十人の味方をもって破っています。

翌年にもメッカ軍と戦い(オホドの戦い)、627年にはメッカ軍にメディナを包囲されますが持ちこたえ、630年1月には攻勢に出てメッカを征服しました。

ムハンマドは、計11人の妻をもちましたが、戦いで寡婦になった有力な信者の娘、政略結婚としてウマイヤ家の娘やアッバース家の義妹、滅ぼしたユダヤ教徒の寡婦などがいます。

おさえるべきポイント

黒石

これを、西欧の学者たちの中には、イスラム以前の多神教時代の神体のひとつと考える者もおります。

イスラム教徒の中にも、第2代カリフのオマルなどは、「・・・そなた(黒石)がただ一塊の石にすぎぬことをわたしは知っている・・・」と言ったという言い伝えがあります。

このことは、イスラム教は偶像崇拝を禁止していることに関係がある、と普通に推定されます。

カリフ時代

学ぶ内容

ムハンマド亡き後、派閥争いが深刻化しそうな状況になりましたが、オマル・イブヌル・ハッターブというムハンマドの古くからの教友によって、鎮静化しました。

オマルは初代のカリフにアブー・バクルを立てました。

ムハンマドの死後、遊牧民たちは、教団への宗教税を納めるのを嫌い、続々と教団から離れ、カリフの指揮の元にあるのは、メディナとメッカを中心とする一地方のみとなってしまいました。これら遊牧民は独自の預言者を持つようにさえなり、大きな勢力を持つものも増えてきたので、アグー・バクルは、それらを次々に片づけました。

二代目のカリフとなったオマルは、アラビア半島からユダヤ教徒とキリスト教徒を追い出し、ヨルダン川の支流付近でビザンツ軍を破り、シリアを平定しました。

638年エルサレム、641年エジプトの首都アレクサンドリア落としています。

四代目のカリフとなったアリーは、ムハンマドの従兄弟でした。アリーはイラクのクーファに入り、そこを首府とします。それに対し、シリアの総督を務めていたいたウマイア家のムーアウィアが対抗勢力となってきました。

657年、両者の軍勢はユーフラテス河の右岸に近いところでぶつかりました(ラクダの役)が、停戦が成立しました。

アリー側では、それに不満をもつ一派が分裂行動を起こし、アリーはその鎮圧の方に余生の力を費やしてしまいました。

おさえるべきポイント

カリフ

アダム、ノア、アブラハム、モーセ、キリストなどの後を受けた最後の預言者ムハンマドの後に続くものはありませんが、彼が創設したイスラム教国の俗務を行うものとして「跡継ぎ」(カリフ)」があります。

ラクダの役

ムハンマドと6歳の時婚約した妻が、45歳の時、ラクダに乗ってウマイヤ家側に立って陣頭に出たため、この名があります。妻の中の最上位で名前はアーイシャと言います。

ウマイヤ朝

学ぶ内容

アリーの暗殺により、ウマイヤ家のムーアウィヤがカリフとして認められました(661年)。そして、ダマスカスを首府に定めました。

ムーアウィヤの死後、長子ヤジード(位680~83)がカリフになると、アリーの次男アル・フサインとその一族のほとんどをユーフラテス川に近いカルパラーの野で皆殺しにしました。現在でも、イスラム教シーア派(アリー党)の間では、毎年、アル・フサインの殉難を忍び、祭典が行われています。

ヤジードの死後、アリーとの戦い(ラクダの役)で活躍した将の息子アプドッラーがカリフとなり、イラン、エジプト、シリアの大部分を支配下に入れ、首都ダマスカスまで、寝がえりました。

しかし、ウマイヤ朝の長老マルワーンが、アブドッラー側の軍をダナスカス近郊で破り、首都を回復し、マルワーンは第四代カリフになりました。以後、マルワーンの家系がカリフの地位に就くことになります。

ウマイヤ朝ではカリフの世襲を認めさせる意味もあって、初代ムーアウィヤはジヤードという父なし子ではありましたが、軍隊にいた非常に聡明な人物をイラクの当時無法地帯であったバスラの知事につけました。そして、バスラは、イスラム世界きっての文化都市に変貌しました。

また、第五代カリフとなったマルワーンの息子、アブドル・マリクは、極貧の出身と言ってもよいハッジャージという人を将軍につけ最も信頼しました。ハッジャージによって、東方領土は安定し、インド西北部の沃野まで領土は拡大しました。

アブドル・マリクの息子ジヤード一世がカリフの時代には、版図はは最大となりました。イベリヤ半島を攻めの西ゴート王国も滅ぼしています。

732年にウマイヤの軍はフランスに攻め込み、フランク軍とトゥール・ポアチエの戦いがありましたが、それには敗れています。

ジヤード一世の弟、スライマーンがカリフの地位に就くと、ハッジャージに関係する人物、一族を政権から追放しました。この頃から、王朝は徐々に衰亡に向かい、750年アッバース一族により、滅ぼされました。

ウマイヤ家のなかで、ひとり逃げ延びた20歳になったばかりのアブドル・ラフマーンは、イベリア半島へ渡り、そこにいた縁故の人に立てられ、政庁のあるコルドバの軍を破って、王位に就きました(後ウマイヤ朝)。

おさえるべきポイント

アッバース一族

ウマイヤ朝をほろぼしたこの一族は、ムハンマドの叔父、アッパースの子孫で、現在のヨルダン南部のフマイマ村で潜伏生活を送っておりました。

アッバース朝

学ぶ内容

発展期

初代アブール・アッバースは、ウマイヤ一門に対し、容赦ない虐殺を行いました。4年9ヶ月の在位で亡くなった後、アブー・ジャアファルがカリフの地位に就き、称号をアル・マンスールとしました。

マンスールは、シリア北部に大軍を有している叔父が、自分がカリフに就くと宣言したので、アッパース王朝成立の功労者アブー・ムスリムを利用し、叔父の反乱軍を鎮圧しました。

マンスールは、アブー・ムスリムを呼びつけて暗殺しましたが、アブー・ムルリムの地元のホラーサーン(イラン東部)で反乱が起こりましたが、この反乱軍も破りました。

さらに、メディナを中心に起こったアリー 家 一門の反乱軍も敗北させました。

マンスールは、公正な税制を心掛けたので、厳しい取り立てにもかかわらず、一般の人々からは支持が得られました。バグダッドに新都を建設するために、大変な金額を使いましたが、個人の生活は質素でした。

マンスールによって、アッバース朝の基礎が固められました。775年、マンスールは、メッカ巡礼中に亡くなっています。

孫のハールーンの時代は、一般には全盛期と言われますけれど、現在のチュニジア、アルジェリア地方を独立させ、また、各地に反乱が起こった時期であり、実際には衰亡の兆候が表れていました。

衰退期

822年頃から、イラン東部で起こったイラン人王朝が続き、イラン以東は名義だけのカリフの支配地となってゆきました。

9世紀中頃、エジプトは、トゥールーン朝のもとに独立し、後、フーティマ朝の本拠地となります。

9世紀末に、イラク南部で黒人奴隷の反乱が起こりました。その乱は鎮圧されましたが、傭兵であるトルコ系軍閥は、カリフを自分達の奴隷のようにしていた、と当時の史家は記しています。

カスピ海の西南岸に起こったプワイヒ朝は、10世紀半ば、カリフを傀儡政権にしました。

カリフの中には、両眼をえぐり取られ獄中生活を送った後、乞食で余生を送る人もいました。このようなカリフはひとりだけではありませんでした。

当時のイスラム世界は、一番の先進地ではありましたが、このような残虐行為は普通に行われていました。

アッバース家のカリフの地位は、すでに名目化していましたが、モンゴル軍がバグダッドを占拠(1258年)して以来、モンゴル軍を大敗させたたエジプトのマムルーク朝の元に1261年から保護されていました。

しかし、1517年、マムルーク朝とともにオスマン・トルコによって滅ぼされました。

文化について

マンスールからハールーンの時代には、ギリシア、インドの文献が多く翻訳され、数学を例にとると、この時代にアラビア数学の萌芽が現れました。

11世紀には、オマル・ハイヤームが「三次方程式論」などを研究し、絶頂に達しましたが、その後は衰退しました。

この三次方程式の解法は、後に欧州に伝わり、五次方程式の代数的解法の不可能であることの発見および有限群論へと繋がったので、現代数学の胎動というべきものです。

おさえるべきポイント

黒人奴隷の反乱

黒人奴隷(ザンジ)が起こしたので、ザンジの反乱とも表記します。アフリカ東海岸から黒人が連れて来られ、イラク南部の沼沢地帯で、農耕に使役されました。

おわりに

イスラム世界と言っても、人種、地域、宗派、など、多様なものが内部に存在し、当時、シリアとイランの対立が、特に歴史を動かす原動力になっていたのは、注目すべきです。

(photo by _IGP1006/INABA Tomoaki)

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本記事は、2013年11月02日時点の情報です。記事内容の実施は、ご自身の責任のもと安全性・有用性を考慮してご利用いただくようお願い致します。

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