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世界史B「東アジア・内陸アジア世界の形成」の学習ポイント

世界史の学習のうち、中国史は、「あまりに古く、あまりに長く、あまりにくどい」と言われ、退屈する人も多いですが、粘り強く勉強することが重要です。

こちらでは、学ぶ内容とおさえるべきポイントをご紹介します。

中国史を学ぶとき

春秋時代と戦国時代はどこが違うのか?漢と唐はどこが違うのか?屯田制と均田制の違いは?黄巾の乱と黄巣の乱の違いは?九品中正制度と科挙制の違いは?など初めて学ぶ人は混乱します。

しかし、似たような言葉であっても、中国社会も農業・工業技術の進歩、それに伴う商業その他の発達もあるわけで、似たような言葉でも、その違いは質的にも量的にも社会の激変を示す場合も多いです。

そこで、おさえるべきポイントには、試験に出やすく、社会制度の変化を示しているものをあげてみました。

黄河文明・長江文明の学ぶ内容

黄河流域では中国の新石器時代(前5000年~前3000年)を代表する住居跡や、彩色土器、石の工具などが見つかっています。

また、長江(揚子江)流域でも、黄河流域から伝わったと見られる黒陶が発掘されています。

中華人民共和国になってから、黄河下流域の殷早期の遺跡よりも、さらに古い遺跡が発見されました。この遺跡を、中国においては、夏王朝の遺跡と見なしています。

おさえるべきポイント

  • 夏王朝の遺跡

新石器時代最後の文化的特色を持つ陶器が発見されました。もし、夏王朝が実在したとすると、新石器時代から青銅器時代へうつる過渡的段階と言えます。

殷・周時代の学ぶ内容

殷時代

1899年、漢方薬である竜骨(脊椎動物の化石)に、小さな文字が刻まれているのが発見されました。牛の肩甲骨と亀の甲羅で、殷王朝の卜師(うらないし)が、吉凶を卜った(うらなった)ものです。甲骨文字と呼ばれます。

甲骨が出土する安陽のあたりが殷の都の跡(殷墟)だということが確実となり、学術調査が1928~37年まで行われ、多数の甲骨、青銅器、宮殿跡、大墓、などが発掘されました。調査は日中戦争のため、中断します。

殷王朝は、前1500~1050年頃まで、に滅ぼされるまで続きました。殷の大墓には、500~1000体もの頭と体の骨が埋められているため、殷の社会は、奴隷制社会であったという考えが有力です。

周時代

殷王朝が、黄河の下流域にあったのに対し、周は、それよりはるか西方の渭水と涇水流域に住んでいた農耕部族でした。

周は、「封建制度」により、異民族を支配していましたが、西欧のものとは異なり、本家と分家の関係の血族的団結の繋がりでした。

また、荘園に働く農民は、農奴でなく奴隷であるという見解が有力で、中世西欧よりも、ギリシア都市国家に近いものです。

周は、前771年、北方の蛮族の侵入を避けて、都を東方の成周(洛陽)に移し、春秋戦国時代となります。

おさえるべきポイント

  • 奴隷制社会

殷墟における富と権力の集中は、奴隷制社会でなければ説明がつかないし、周代においても、周は殷に文化面で遠く及びませんでした。

また、周の青銅器、石器、木器の使用状況は殷とほぼ同じなので、同じく奴隷制社会と見なす見解があります。

春秋戦国時代の学ぶ内容

「春秋」とは、孔子が編纂した書物の名前で、「戦国」とは、やはり「戦国策」という書物から来ています。

春秋時代

春秋時代は、前770~前454年頃を指します。司馬遷は、「史記」の中で、周のほかに13の重要な国をあげています。魯、斉、晋、秦、楚、宋、衛、陳、蔡、曹、鄭、燕、呉です。

中でも、晋の桓公は覇者として、北方の山戎や狄(後に匈奴の一部を構成する)、南蛮の楚を討ち功績をあげました。跡を継いだ文公も楚の侵入を防ぎました。

しかし、楚の荘王は、前579年、鄭と晋を破り、覇権をうちたてました。また、春秋末期には、揚子江下流地域に、呉、越、両国が強大になって現れました。

この時代には、思想家、孔丘(孔子)が現れ、戦国時代の諸子百家への道を開きました。

戦国時代

戦国時代(前403~前221年)には、諸侯の国である都市国家が激減し、真に独立国と言えるのは、燕、斉、趙、韓、魏、楚,秦の七カ国だけになってしまいました(戦国の七雄)。

中国の誇る製鉄業も、戦国時代にはより大きな発展を遂げて、農業生産の向上に寄与しました。

前403年、晋は、趙、韓、魏に分割されました。趙は、大国に囲まれ北方にしか発展できなかったので、北方の遊牧民に勝つために、軍に胡人の服を着用させ、狄の大国、中山国を滅ぼしました。

戦国時代には、産業も盛んになり、思想の分野でも諸子百家と呼ばれる人々が現れましたが、北辺に強大な遊牧民の国家、匈奴が出現し、統一国家が望まれた時期でもありました。

おさえるべきポイント

  • 覇者

弱体化した周王朝を助け、諸侯を連合して盟主となり、封建制度の秩序維持にあたるものをいいます。

  • 諸子百家

儒家(孟子)、墨家(墨擢)、道家(老子、荘子)、法家(韓非子)、名家、農家、陰陽家、縦横家(蘇秦、張儀)などがあります。

秦・漢の時代の学ぶ内容

秦時代について

秦は、戦国時代の中期頃まで後進国でしたが、登用された商鞅が変法(前359~)を行ったことにより、大国になってゆきました。戦争に従事する独立自営農民を重視し、貴族を抑圧しました。

商鞅が殺害された後も、その政策は継承され、貴族階級に代わって、新興の地主階級が国を支配する時代になってゆきました。

秦以外の六ヵ国では、すべて政治改革に成功していなかったため、秦王、政は、次々とそれらを滅ぼしてゆき、前221年、政は始皇帝として、中国を統一します。

始皇帝の政策

始皇帝は、李斯の意見を取り入れ、郡県制により専制主義的、中央集権国家機構をうちたてたので、いままでの貴族世襲制度は覆されました。また、法律、度量衡、貨幣、文字の統一を行いました。

思想統一のため、焚書坑儒を行いました。

始皇帝は大道路や阿房宮、万里の長城なども建設したため、農民は破産状態に追い込まれ、始皇帝の病死後、農民の蜂起である陳勝、呉広の乱が起き、項羽劉邦も楚王の支持を受け、秦軍と戦いました。

漢時代の始まり

項羽との戦いに勝った劉邦は、前202年、漢の皇帝として即位します(高祖)。高祖は、功臣に報いるため王国をたくさん作ったため、郡県制度は縮小し、郡国制と呼ばれています。

高祖は、都を長安に置き、功臣の王国をつぎつぎと潰し、劉一族のものを王とし、漢帝国の基礎を固めました。

景帝の時代、前154年、呉楚七国の乱が鎮圧されると、漢は中央集権国家になり、武帝(在位前141~前87年)の時代には経済が繁栄し黄金時代を迎えます。

武帝の政策

武帝は、董仲舒の儒家思想を採用し、匈奴討伐の戦いを開始し、匈奴に大打撃を与えました。さらに、張鶱を西域に派遣し、シルクロードを開き、南越国や朝鮮も平定し、朝鮮には楽浪郡などを置きました。

武帝の対外戦争と貨幣経済の発達により、商人の勢力が伸びてくると、商人に税金をかけるため、武帝は、塩、鉄などを政府の専売とし、均輸・平準の法を定めています。

武帝の時代には、文化も絢爛たるものとなり、儒学者の董仲舒史記を書いた司馬遷などが有名です。

武帝の死後

武帝がなくなってから、ほぼ百年後、外戚の王莽が幼い皇帝を廃して自ら皇帝に就き、国号を「新」と改め、儒教の古典をそのまま政治に実行しました。

そのため、前漢の末頃から頻繁に起こっていた農民運動は、一層激しくなり(赤眉の乱)、王莽は赤眉軍に殺されました。同時期に旗上げしていた前漢皇帝の分家の豪族、劉秀は、赤眉軍を降伏させ帝位に就きました。

25年、劉秀は、都を洛陽に定め、漢を復興し(後漢)、光武帝として即位します。

後漢時代の社会

後漢時代には、手工業、製鉄業、紡績業も発展し、南部まで中原の進んだ農業技術が行き渡りました。蔡倫によって紙が発明されています。後漢の末年には、医学者の華陀がでました。

匈奴について

匈奴に対しては、班超が南匈奴と共同して北匈奴を破りました。北匈奴は西へ移動し、それに押されてゲルマン民族の移動が起こったという説もあります。

黄巾の乱

後漢の中期からの外戚、宦官の勢力増強により、それと対立する側との抗争で政治は乱れ、中国西北部に住む羌(きょう)族の反乱鎮圧のための重税に、農民の側は、184年、黄巾の乱を起こします。

黄巾の乱は、軍閥の曹操によって鎮圧され、曹操の死後、息子の曹丕により魏王朝が建てられ(220年)、漢王朝は滅びました。

おさえるべきポイント

  • 郡県制(秦)

春秋時代から始められた制度で、家臣の勢力増大を抑えるため、征服した土地を家臣に与えず、直轄領として役人を派遣して治めるもの。始皇帝は、全国的に行いました。

  • 焚書坑儒(秦)

新しい制度を守るため、医薬、卜い(うらない)、農業に関する以外の書物は焼き捨てさせ、古書に基づいて政府を批判した者を厳罰に処しました。

  • 均輸・平準の法(漢)

均輸とは、各地方の経済の中心地に役人を置き、特産品などを税金の代わりに物納させ、政府が重要の多い地域に運搬・販売して、その利益を国庫に納めるものです。

平準とは、値段を平均するという意味で、都を中心とした地区に政府が各種の物資を集中し、品物が安い間に補充し、品物が不足すれば高く売る制度です。

魏晋南北朝時代の学ぶ内容

魏について

魏の曹操は、屯田政策をとりました。これは、政府自らが荘園を持つことを意味します。軍人のいる前線基地でも屯田は採用されました。また、漢の官僚制度を人材を審査しながら吸収するため、九品中正制度を施行しました。

曹操は、土豪勢力を結集して政権をつくりましたが、彼の死後、王室は急速に貴族化し統制力を失い、内部で、蜀を滅ぼした司馬氏が力をつけ、265年、司馬炎すなわち晋の武帝が即位します。

晋について

晋は、280年、呉を滅ぼして中国を統一します。世の中が平和になると、一流貴族の間で、贅沢を競う風潮や、竹林の七賢などの儒教の礼節に従わない人達も現れました。

しかし、王朝内では、武帝の死後、一族が殺しあう八王の乱が起こり、王室のそれぞれが異民族を味方につけようとしたこともあり、匈奴、鮮卑、チベット系の氐(てい)、羌などは、一層、中国社会に侵入して行きました。

316年、匈奴の建てた漢によって晋(西晋)は滅ぼされ、揚子江下流地域に逃れた王族一派は、かつての呉の領土を継承し、東晋を建国します(五胡十六国時代の始まり)。

五胡とは一般に、匈奴、羯、氐、羌、鮮卑 の五部族を指します。

東晋について

383年、東晋は、河北を統一した前秦と戦い勝利します(淝水の戦い)。その後、東晋では、帝位を簒奪する者が現れたので、軍人である劉裕はそれを攻め滅ぼしました。

さらに劉裕は北伐を決行し、南燕を滅ぼし、現在の山東省を獲得しました。直後に、自由貿易を望む水上労働者が反乱を起こし、都の建康に攻め込もうとしたので鎮圧しました。

また、強い軍閥のいる荊州に東晋の有力な貴族をおいて軍閥を弱体化させました。後、劉裕はその貴族も攻めて破りました。これは、東晋において、劉裕に対抗する勢力がなくなったことを意味します。

劉裕は、貴族からの税役で軍を強化し、長安、洛陽を久々に異民族から奪回しますが、劉裕が退去した後、匈奴に長安は奪い返され、匈奴は国名を夏とします。

南北朝時代

焦った劉裕は東晋からの禅譲により、420年、宋を建国します。439年、北魏が華北を統一したので、589年に隋が中国を統一するまでの間を、南北朝時代(439~589年)と呼びます。

北魏では、皇后と太子の生母との間の葛藤を避けるため、生母は殺害されることになっていました。これは、皇后が皇太子を生んだ場合でも例外ではありませんでした。

ただ、その例外となった胡太后は宮中を支配しましたけれども、その統治能力不足のため北魏の分裂(534年)のきっかけをつくっています。

また、南朝の宋やその後継王朝の斉にしても、異民族軍隊系統の血が混じっているとする見方もあり、そのためか事実としては長子相続などの決められた法がないため、一族が殺し合う状況が、北朝と同じく続きました。

そのため、南北各王朝は比較的短期間で滅びています。

この時代の文化

文化の面では、東晋の時代には、法顕は、インドへ経典を求め、「仏国記」という旅国記を残し、書家の王義之(おうぎし)も有名です。

おさえるべきポイント

  • 九品中正制度

本籍地で官吏に、同郷の官僚の徳行才能を評価させ(郷品)、次に朝廷の官吏に同じく評価させる(官品)もの。新規採用者にも行われました。魏から始まり、隋で廃止され、科挙制に取って替わりました。

隋・唐の時代の学ぶ内容

隋の文帝の政策

589年、北朝の北周、南朝の陳を滅ぼして、中国を統一したのが、隋の文帝です。モンゴル地方の突厥も臣服させました。

文帝は、九品中正制度の運営が貴族化したので、中央政府で試験を行い、明経、進士などの肩書で官吏になる資格を与えました。これが科挙の起源です。

煬帝の政策

文帝の跡を継いだ煬帝は、南満州から、朝鮮半島にまで領土のあった高句麗を攻めるため、揚子江を含む中国本部の大河川を縦に連結して大運河をつくり、物資を補給しようとしました。

しかし、高句麗遠征は失敗し、疲弊した人民による反乱が起き、北方の基地にいた李淵・李世民父子は、各地で官僚、軍閥等により組織された反乱軍を破ってゆき、618年、唐は中国を統一します。

高祖・太宗時代

高祖(李淵)、太宗(李世民)の時代には、北部では、しばしば略奪に来ていた突厥を攻め服属せしめ、西部では、吐蕃(チベット)を破り、和親を誓わせました。太宗の子、高宗は百済や高句麗も滅ぼしています。

則天武后の時代

太宗の時、後宮にいた武氏という女性が、高宗に再び迎え入れられ、権力を振るいます。次々と一族を殺害してゆき、天子となった実子が抵抗したので毒殺したとの風評もあり、自ら皇帝に就き、国名を唐から周と改めます。

中国では女性が皇帝に就いた例がないので、則天武后と呼ばれています。

712年、玄宗が即位しますと、抵抗勢力は、則天武后の手によりほぼ一掃されていましたので、在位45年は、晩年の1、2年を除き、平和と繁栄の時代が続きました。

唐について

唐では、土地制度として北魏の時代から始まった均田制を採用していましたが、貨幣経済の浸透とともに、銅銭の徴収に代わってゆき(両税法)、軍人のいる辺境では、屯田制となってゆきました。

755年、安録山の反乱が起き鎮圧されます(安史の乱)。

875年、塩の専売に対抗した闇商人の黄巣らが中心となった黄巣の乱が起こります。殺された黄巣の部下で唐に投降して節度使(辺境警備隊長)になっていた朱全忠が唐を滅ぼします(907年)。

おさえるべきポイント

  • 均田制

戸籍のある労働のできる人間に対し、口分田を認め、税として、租(穀物)、庸(織物)、調(労役)を賦課するものです。

おわりに

南北朝時代は、たくさんの国名がでてきますが、大学受験に出題される頻度はそれほど高くないので、重要なものを除いて省略しました。

複雑に見える南北朝の王朝交代も、異民族が中国化され、漢民族の方も野蛮に影響されてゆく混乱期と考えれば、分かり易いです。

(photo by 著者)

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