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  6. 中学「社会」<歴史>の「江戸時代:近世・近代の外国史」の学びかた

中学「社会」<歴史>の「江戸時代:近世・近代の外国史」の学びかた

2013年10月29日更新

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はじめに

数千年単位でみる古代、数百年におよぶ中世という時代の長さに比べると、近世はたった一時代、近代は戦前の数十年間と納得のいかない細かさ、かも知れません。

情報化社会なので、情報量も多くて、事件などを全部覚えようにも、次々と起こって大変、しかし昔の国のように正史がちゃんと記されなかったり破棄されたりし、後の人々には不思議な改ざん話でしか伝わらない危惧も少ないのです。

まずは大きな流れとともに外国史をみていきましょう。

重要なポイントやおさえるべき語句などは太字表記してあります。太字を押さえていければたいがいのテストにおいても有利となるでしょう。

この分野を学習をする上での大切なポイント

アジアと大航海時代を経てきたヨーロッパ諸国、およびアメリカとの圧倒的な差に注目するのがポイントです。

下関条約(全権・伊藤博文)という日清戦争の講和条約、ポーツマス条約(全権・小村寿太郎)という日露戦争の講和条約、

そして戦争史と、ペリー等との日米和親条約の不利な面の是正である治外法権撤廃・関税自主権回復の呼応は頻出です。

日本がアジア諸国の内では最も早く開国、ほぼ同時の開城、と内外大事件を両方やったためにかなり複雑になります。国情を、欧米列強とソビエト連邦、そしてアジアに別けて流れをよむのがポイントとなります。

年代について

近世・近代とは

16世紀後半の安土桃山時代のおわりから、江戸時代までを指します。

近世・近代の詳しいポイント

近世は武士の時代で、250年にもおよぶ長く安定した時代でした。しかし、海辺の辺縁部の藩が先進技術を持つさまざまな外国勢力と通じ、彼らの力を得た駆け引きや戦争によって、江戸城を落としました。

1868~9年戊辰戦争により明治新政府が誕生し、近代となりました。

しかし彼らの勢いはやまず近代の悲惨な、外国との戦争史の幕開けとなってしまいました。

近代の主な外国との出来事について

ポイントは鎖国時代

江戸時代には、徳川家が江戸城に居し、石高制や幕藩体制で統治していました。

今でいう都道府県にあたるそれぞれの藩には城があり、殿様や家来や皆のくらした城下町がありましたが、三代徳川家光のだした鎖国令により、今のようにキリスト教徒の人々や外国人の人々は、一部地域でしか中々見られませんでした。徳川家光がキリスト教からの影響を嫌ったためです。

外国との貿易は、長崎出島で、

  • 中国
  • オランダ

とだけ行われてきました。

李氏朝鮮とは帰化人の受け入れや朝鮮通信使使節のやり取りがありました。

主な出来事にかかわる人物

アメリカ海軍の提督:ペリー

1853年浦賀に入港してきた黒い帆船がありました。

ペリーの、蒸気機関を動力とする蒸気船だったのです。

アメリカ海軍を率いたペリーの来航でした。

鎖国後にめざましい変化を遂げていた世界情勢のあらわれ、といえます。

市民革命絶対王政が徐々に崩壊した世界列強において熾烈な版図争いが起こっていたのでした。

最新鋭の武器や技術をイギリスフランスなどの西洋の大国やアメリカが保有し、15から16世紀に起こった、大航海時代のはてに貿易などをおこなって、工場制機械工業もどんどん進展させていました。

鎖国政策中に列強が経た歴史のポイント

市民革命がほぼ同時に起こっています。

産業革命だけは、アメリカへの移民の流出と独立が起こったイギリスにおいて興ったものの、技術発明として盛んに輸出される形で伝播されました。

イギリス

1649年 ピューリタン革命

1688年 名誉革命

18世紀 産業革命

フランス

1789年 フランス革命

アメリカ

1775~83年 アメリカ独立戦争

1776年 ジェファーソンらの起草による独立宣言

1861~65年 南北戦争(注. ペリー来航後!)

そして日本にも詰めかけてきたアメリカ海軍提督ペリー!

1853年に浦賀に軍艦が現れた翌年には、ペリーの要求に応えて、アメリカとの間に日米和親条約が結ばれることになりました。

近代の日本と外国の歴史を学ぶポイント

列強が市民革命していた頃の鎖国政策と明治新政府の戦争に大別して学びましょう!

鎖国解禁後の出来事は以下の通りですが、太字を押さえると対外戦争史の流れがつかめますので、1894年の治外法権撤廃などとあわせて、年表や地図で事実関係の確認ができればテストにも優位になることでしょう。

日清修好条規と日清戦争

1871年に明治新政府が、アヘン戦争やアロー戦争などでイギリスなどに惨敗した後の清王朝に対し、日清修好条規を結び、李氏朝鮮にも西洋諸国から江戸幕府が迫られたと同様の国交を求めました。

1894年日清戦争における勝利にいたるまで、日清修好条規は効力を持っていたといわれています。

新世界の諸外国に圧された幕府を槍玉にあげながら仁義なき戦いを勝ちのぼってきた新政府は、その手法を、かつての朝貢国の流れを汲んだ清(中国)や、盟友国百済・任那のあった朝鮮半島などといった、近世においても国家交流が継続されていた国々が西洋からの同種の外圧に苦しみ、次々戦に破れていく隙にも向けていくのでした。

日英同盟とその後

1902年、明治新政府は、対ロシア牽制を目的としたイギリスとの一時的に終わった日英同盟を結びました。

さらに、徴兵制や富国強兵策等により社会を激変させ、他のアジア諸国より先んじて西洋式武器を輸入したアドバンテージで、国内の動乱の元である不満分子を、幕府と同様の外圧下にあった朝鮮半島から中国方面へと送り出していきました。

日露戦争とその後の度重なる列強との戦争

1904年に日露戦争が勃発し、1910年に日韓併合、1914年には第1次世界大戦が開始され、何年にも及ぶなど、悲惨な戦争が繰り返されました。

おススメ!受験用小説

「天璋院篤姫」…宮尾登美子

NHK大河の原作図書です。

いろんな幕末の人々の立場がよく描写され、下剋上到来直前の時代背景と、新撰組以外の、公・武(徳川御三家と本土寄りの藩主や数多の武家)・海外に援助され徳川家への下剋上をはかる辺縁地域の外様大名たちに、それぞれの下剋上への道すじがあったことがわかってきます。

たとえばですが、いきなり「政治家の西郷隆盛が」、などといわれていもなぜこの人が歴史上スポットをあてられているのか漠然としか理解できない、といった事情が少なくなり、混乱の時代を見通しやすくなるでしょう。

NHK大河の原作図書ですが、もう読まれたでしょうか?

(photo by 足成)

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本記事は、2013年10月29日時点の情報です。記事内容の実施は、ご自身の責任のもと安全性・有用性を考慮してご利用いただくようお願い致します。

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