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歴史上の人物から時代背景を見る(紫式部と清少納言は仲が悪かった)

2010年12月13日作成

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目次

はじめに

紫式部と言えば「源氏物語」の筆者。清少納言と言えば「枕草子」の筆者。どちらも平安を代表する女流文学者であり、国語や社会の教科書でも取り上げられ、知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。

そんな2人の有名女流作家はお互いに仲が悪かった。悪口を言い合っていたと言われています。歴史背景から真実を見てみましょう。

本当に2人は仲が悪かったの?

2人とも平安中期の一条天皇に仕える女房です。正確にはそれぞれ皇后、中宮付きの女房なのです。同じ天皇の時代から次々と歴史を代表する文学が生まれた事に驚かされますね。

清少納言こそしたり顔にいみじうはべりける人

以上は「紫式部日記」における一文です。「清少納言って得意顔して鼻持ちならないイヤな女よ」と書かれています。(まあ「紫式部日記」に書かれている悪口は清少納言だけではないのですが)

清少納言と言う人は才気煥発で明るく気が強く、リーダー格のような人だったと言われています。どちらかと言うと気が弱く奥手だったらしい紫式部にとっては煩わしい存在だったのかも知れません。

清少納言は紫式部の悪口は言っていない?

「枕草子」は今で言う「宮中生活エッセイ」のような物で、当時の宮仕えの様子などの参考にもなっているのですが、ここに紫式部の悪口は全く書かれていません。

この事からも(もちろん残されている文献に記された生年などからも)、実は清少納言と紫式部は宮仕えの時期が違い、一面識もないのではないか、と近年では言われています。

しかし、それにしては紫式部の清少納言評が生々しすぎるので、「一面識もない」と言うことは無いのかも知れません。残されている年月日については真実だとは言い切れないので

本当にライバルだったのは2人の主人

ここから当時の歴史背景を見ていきます。

清少納言の主人・定子、紫式部の主人・彰子

定子の方が彰子よりも先に入内しています。定子は当時の権力者・藤原道隆の娘でした。美しく気も利く定子は一条帝の深い愛情を受け、皇后に立てられるまでになります。

しかし、父・道隆が亡くなると、様子が変わってきます。本来ならば代わって後ろ盾になってくれるはずの叔父・道長は、何と自分の娘・彰子を入内させてきたのです。

後ろ盾を失った定子の頼る物は一条帝の愛しか無くなりました。そして、様々な陰謀に遭った末、難産で亡くなるのです。その後は、紫式部が仕える彰子が、一条帝の唯一の中宮になるのでした。

文学も権力争いの道具

ゲームもテレビもなく、貝合わせだのすごろくだのしか娯楽のない時代、宮廷生活を面白おかしく描いたエッセイと、誰もが夢見る宮廷恋愛ロマン小説は、宮中の人々の心を鷲掴みにしました。

それは、帝の心を掴む道具でもあったのです。権力者がさらに権力を得ようと自分や親戚の娘を帝の下に送り込む時代。美しいだけでは帝の心を掴むことは出来ません。

清少納言と紫式部は、藤原家の兄弟おのおのが権力を手にするための道具でもあったわけです。

おわりに

清少納言は定子が亡くなった後、宮中を退き、その後の事は言い伝え程度にしか解っていません。墓は徳島の鳴門市にあると言われていますが真実は解りません。

紫式部の墓と言われる物は京都市にあり、ひっそりとした佇まいながら観光名所の1つになっています。

紫式部の墓
交通:市バス「北大路堀川」下車すぐ

本記事は、2010年12月13日時点の情報です。記事内容の実施は、ご自身の責任のもと安全性・有用性を考慮してご利用いただくようお願い致します。

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